江戸呑み……との村(日本橋富沢町)【閉店】

■江戸東京…敬意を表する先輩同輩が営む名店

■ との村(日本橋富沢町

 

 

2013年8月にこの店の鰻を愛する多くのファンに惜しまれながら閉店した名店「との村」。以下の記事は2013年4月に訪問した時のものである。

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蔵前通り馬喰町の鞍掛橋を折れ久松警察署方向に向かい、人形町通り堀留町の信号から来る道とぶつかった先の路地裏に知る人ぞ知る鰻の名店「との村」。住所で言うと日本橋富沢町。昭和二十六年創業以来この界隈の繊維問屋の旦那衆に愛され続け現在は二代目である老夫婦が二人で営むカウンター5席のみの小さな鰻屋である。

 開店直後のためか先客なしカウンターの中央に鎮座する。鰻重の特上を頼む。つけ場で主人が黙々と鰻をさばき表の焼き部屋で丁寧に焼き上げていく。その間女将さんと世間話、昨日は病院へ行った為休業したとの事。本当は昨日来たかったのだが雨で億劫になり今日にした。もし雨で足元が悪い中来ていたとしても昨日は鰻が食べれなかったと知る。今日にして大正解。鰻が焼き上がる頃合をみて女将さんが「そろそろいい?」と尋ねれば、黙々と鰻を焼く主人が首を縦に振る。そして女将さんにより御飯がよそわれ間もなく鰻の重が運ばれる。鰻重の蓋を開ける瞬間がなんともたまらない。湯気とともに焼きたての鰻の香ばしさが立ち込める。自慢の山椒を少々振り夢中になって鰻とご飯を口に放りこむ。旨い。私はさほど育ちが良いわけではないので、どの店のうな重でもそれなりに旨いと感じて食べられる方だが、ここ「との村」のうな重は本当に旨い。女将さん手製の香の物とサービスで出してくれた肝吸いもとてもよい感じ。あっという間に完食、至福のひと時。

 富沢町にある鰻の隠れた名店との村であるが、この店の生い立ちを考える時そこに東京の歴史を垣間見る事ができる。現在との村がある鞍掛橋から久松警察署至る木造家屋等が密集する細長いエリアは以前はお堀であった。浜町堀(竜閑川)という江戸時代に人工的に堀割られたお堀で、終戦後復興のため残土で埋め立てられ暗渠化された。との村の初代(先代)は戦前久松町にあった同名の鰻割烹店の使用人であったが戦火で店は消失・廃業、戦後すぐにその屋号の「との村」をもらい屋台の鰻屋として人形町界隈で商売をはじめる。その後行政より露天商等に対する規制がかかり、屋台等で商売する者達は浜町堀暗渠上に強制移転させられそこに長屋などを建て住み着き、との村もまたこの地で鰻店を構え二代目が継ぎ現在に至る。

 写真(左)は戦後間もない頃の富沢町付近。現在「との村」がある地点(赤星)が浜町堀だったことが分かる。写真(右)は現在。写真(下)は同地点をグーグルマップ(2015年)で見た様子


■との村(日本橋富沢町)

 

東京都中央区日本橋富沢町14−5

閉店につき電話番号省略